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自分自身が認識する自分と他人から見える自分

何故こんなに乖離があるのか

「自分は本当はこういう人間なのに、他人はどうも自分のことを理解してくれない」

「よく誤解されてしまう」

ということを言う人をよく見かけます。実際、若い頃の自分もそう思うことがありました。

自分はこんなすごいコトを考えている、自分にはこんなコトが出来る、自分は人よりすごい、自分は・・・───なのに、人は自分を低く言う、自分のことを否定する、自分のことを理解してくれない・・・。

では、「本当の自分」とは何なのでしょうか?考察を進めてみましょう。

自分が認識する自分と、人が認識する自分は何故相違相反する?

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当然の話ですが、自分が考えていることは、ほとんど人には見えません。考えるという行為は人間の脳の内部で行われており、「考える」ことに起因する表情の変化や体の動き以外は、外部からは見えないからです。

そこで、人は自分の考え(仮に【考えA】とします)を「言葉」「行動(表情や行い)」で他人に伝えようとします。

一方、人は他人のことをどのように認識するのでしょうか。他人は、その人が発信する【考えA】に関する「言葉」「表情」「動き」を見て認識しようとしますが、【考えA】に関連しないその人の別なシーンにおいての「言葉」「表情」「動き」も認識に加わり、さらに「発言者に対する自分や他人による評価」も含めて判断することが往々にしてあります。。

しかも、人は何かを理解しようとするとき、大抵は「それまでの自分の経験」に照らし合わせて判断する傾向があるため、【考えA】の発信者が発する「言葉」「行動」を100%正しく認識するとは限らないのです。

まとめると、【考えA】の発信者は自分が発する【考えA】を理解してもらおうと考えますが、受け手側は【考えA】に関するその人の発信を100%正しく認識しない上、さらにその人の他の「言葉」「表情」「動き」や、他人からの評価なども含めて受け止めるため、齟齬が発生するのは当然と言えます。

こうして見ると、「私」と「他人」では「私」に対する認識が異なるのは当たり前です。そして、大抵の場合「多くの他人」が「私」に対して類似する評価をするようです。何故なら、「私」を認識する際に「他人の評価」を利用しているからです。このため、「私自身が下す私自身の評価」と「他の大勢が下す私の評価」という二極化が生まれ、「周りのみんなは私のことを理解してくれない」といった事象が起きるのではないかと思います。

余談ですが、私自身振り返ると、20代の頃の私は心のどこかで「僕のことを理解しないなんて、周りのヤツらは何てバカなんだろう」と考え、人を見下していた気がします。しかし、20代後半に「自分自身しか知らない自分よりも、社会の中において大勢が認識する自分の方が、実は【社会に属する自分】としては本当の姿ではないだろうか・・・」と感じ、以後考え方を改めるようになりました。そして、以前より自分に対する他人の指摘に傾聴出来るようになりました。未だに指摘されることが多いですが、これは学ぶべきことが多いという意味でも大変有難いことです。

人の身体的成長は20歳がピークと言われていますが、人間自身の成長は、成長を諦めない限り、死ぬまで続くのだと思います。

自分とは何か

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話を戻し、自分という存在をもう少し噛み砕いてみましょう。

自分は、「宇宙」の中に存在する「銀河系」と呼ばれる星団に含まれる「太陽系」の第三惑星「地球」に存在する数多くの生命体の中の「人間」という種族の一人です。地球には陸地があり、私たちは「アジア」と呼ばれる地域の東側に存在する島国「日本」に住んでいます。私の場合、日本の「本州」の南東に存在する「関東地方」に分類される「埼玉県」の東南部にある「さいたま市」の中の「浦和区」という地区に含まれる小さな町に住んでいます。

こうしてみると私個人なんて、広い宇宙の中において大変な辺境に存在する、チッポケな存在であることがわかります。

「パスカルの定理」で有名な、フランスの数学者であり哲学者でもあるパスカルは、パンセの中で「人間は考える葦である」と書き残しています。

葦は川原や湿地などに群生する植物ですが、1本1本は大変弱く、風が吹くだけでヨタヨタと倒れてしまいます。宇宙の中における人間は葦のように弱く本当にちっぽけな生命体であり、宇宙は一人一人の人間など認識していませんが、考えるという中においては人は宇宙を超越することが出来る、そして1本1本は弱い葦も、集まれば風が吹いてもしなやかに順応出来る・・・そういう意味で人間の可能性は無限ですが、しかし1人1人は必ず消え行く儚い存在でもあります。

普段認識していないかも知れませんが、小さな地域での話とはいえ数多くの人の中に囲まれていると、自分が大勢の中の一人、社会の中の一人であるということは、誰もが体感していると考えられます。アメリカの社会心理学者マズローがいう社会の中の人間の欲求という視点から見ると、「大勢の中」に存在する自分は、その社会に属していたいという「所属欲求」が満たされた上で、人の心には「承認欲求」が浮上してきます。

承認欲求は、「社会の中に私が存在しているということを知ってもらいたい」「私の存在をもっと強く認識してもらいたい」「私のことを褒めてもらいたい」「私は人よりも偉いと思ってもらいたい」「私のことを尊敬して欲しい」というように、徐々に広がっていくものです。これは決して悪いことではなく、パスカルが言うところの「ちっぽけな、そしていつか必ず消え行く儚い存在」である人間が、「考える」ということを通じて宇宙の摂理に対し挑戦をしている、とも受け取れます。

自分なりにまとめると、「自分はいつか消え行く存在だが、自分自身の可能性を信じて考え行動することで、そうした人間の実質(宇宙の中のちっぽけな存在であり、いつかは死ぬ有限な存在)を破る挑戦をしている」ということが生きとし生ける人間の心のずっと奥に存在し、それが人間が行き続けようとするエネルギーの根源ではないかと思います。その顕れ方は、人それぞれですけどね。

話の方向はズレるかも知れませんが、こうした考えは「成長欲」に繋がる反面、「自己顕示欲」に縛られる危険性もあります。自分の現在持っている力以上に自分は凄い人間なんだと思い込み、それを社会に顕示するようになるということは、実はどんな人間でも多かれ少なかれ抱いてしまう気がします。

どう生きるのが正しいかなど分かりませんし、自分にとって自分の死後は自分自身が直接関与出来ない以上、生きている間は自分がどう考えて生きるかしかありません。しかし、ちっぽけな存在ではあっても、周囲に影響を及ぼしている以上、自分の生き方は少なくとも人類、そして宇宙の向かう行き先に、ほんの僅かかも知れませんが影響を及ぼすはずです。そういった視点を常に忘れず、今を生きていきたいと思っています。

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